『クリムゾンの迷宮』/貴志祐介 感想文


なるほど、バトルロワイヤルはエンタメだ。


私は貴志祐介先生の書く物語に感じる「人類への漠然とした悪意」に一定の信頼を置いているのだが、今作もそれを読み取ることができた。より正確に説明をしておくと、貴志さんから人類への悪意を感じるということだ。その悪意は「人間の露悪的な側面をことさらに言う」よりは単に、作者に見えている人間の本性がそうあるためにかならず核に潜んでいるのだろう、と私は考えている。物語の中心となるのは、とあるデスゲームなのだが、その舞台設定を読み終えたあたりから一息に読み切った。
読み始めて感じたのは、今述べたある種の悪意の片鱗と「理系の文章だ」という二点。単純に理系的な熟語の選択が多いからだろう。「目が覚めたら見知らぬ場所にいて、どうやら飲まず食わずのまま荒野に放り出されていた。」という状況の説明が、人の目を通した叙述というよりは、第三者の書いた説明書のような、物語の中で現実として起こっていることから距離をおいた事実としての印象がする。主人公の藤木の境遇から、ヒロインにあたる藍、その他のゲーム参加者と、それらを取り巻く誰かについて、淡々と、なんでもないことのように書かれるのだ。もし身に覚えのあるような境遇の人だとしたら、なかなかに平常心では語れない半生だと思う。
話に必要な要素をひたすら合理的に揃えていくような組み立て方は、形式的な味気なさもあるが、次に起こりそうなことを推測しやすい「引き」の役割も担っていると思う。「バトルロワイヤル」が始まるまでに起こること、スタートしてからの定石、終盤にかけての布石、そして回収まで。ゲームという制約がある以上、その参加者に与えられた選択肢も限られ、要はそれをいかに駆使して面白いものを描くか、というサスペンス・ミステリとなる。
王道のバトルロワイヤル、デスゲームをちゃんと読むのは初めてだったのだが、不思議なもので、主人公の取らなければない行動はなんとなくわかる。それは「現実で人間の命をかけたデスゲームをするなら」という設定の説得力がいみじく、赤い岩に囲まれたバングル・バングル峡谷を舞台にサバイバルを展開していくからだ。主人公が「情報」を手にすることでこのゲームの攻略法、サバイバルストラテジー、ゲームの観客の存在が読者にも説明されるため、単純に「オーストラリアの荒野に放り出されたらこうして生きていくのか」という知見も手に入れられるのだが、その取材の緻密さが、面白さと同時にこのゲームのスリルにも一定の現実感を与えてくる。設定の強度はそのまま「現実にあるものでデスゲームをすることは可能」という侵食型の恐怖になるのだ。そして、主人公たちを視点主として、読者にもその選択肢が解放され、反対にそのほかのプレイヤーの選択が伏せられる。自然と次の出来事を推理しながら進むストーリーテリングに気づくのも面白い。
人間がゲームで生き残るために必要なのはなににおいても「情報」であり、そして、情報が必要だという情報を持っているか否かがプレイヤーの勝敗に関わる。私は賢い人間が大好きなので、読みながら「ここは情報一択でしょ」と思うし、作者がそれを正解に設定したことにかなりの好感をもった。ただし、ついでにこの辺りにも人類という生物への冷たさを感じる。理性的であることを是としているというよりかは、食料や武器を選択する人間が一定の割合で集団に存することが前提で成り立つゲーム設定にしているからだ。
さらには、主人公でさえも情報を軽んじているし、後でわかることだが、口添えをした藍も当人の自由意志による選択ではない。藤木が生き延びられたのは、最良のルートを選んだというためではなくて、最良のルートに偶然転がり込めた幸運のためなのだ。
つまり、おおよその人間が振り分けられるのが、食料のルート、必ずエネミーに仕立てられる食人鬼の道と言うことになる。たびたび言うが、わざわざ「大体の人間が最低のルートを選びます」と述べるのはなんというか、流石の冷酷さだと思う。
プレイヤーに与えられる端末と、物資供給、信用ならないキャラクター、ゲームを解くヒントとなるメタファー、情報が揃うにつれ、この前提をどう転ばせるのかといいうワクワクが募る。クローズドミステリの面白さを衒いなく展開していけるのも、設定の緻密さのなせるエンタメ性なのだと感じる。
特に後半にゲームの後半にかかるにつれ、緊迫した場面の展開には読み応えがあった。伏線を忘れさせない安定感とスリルは、そのまま映画のシーンのような完成度だと感じる。他のチームとの再会や、ドクロマークの意味、V字の谷と毒蛇のリスト…完璧な回収力に一気に読まされてしまい、バトロワミステリを好きになる一冊になった。人間関係をゲーム性に織り込んで語る辺りにもリアリティショーとしての徹底した視点があって良い。
最後まで主催側の思惑や正体は明かされないのだが、それで興が削がれるということもない。というのも、知ったからといってあのゲームに現実性が担保されるとは思わないし、寧ろより創作色が強くなって腑に落ちなさを覚える気もするからだ。それに私が読みたかったのは「このゲームの結末」という「番組の締め」なのだから、制作会社なんてどうでも良いのだ。そういう無責任な消費感情をひっくるめて読ませる作品だったと思う。

私はこの文章の始め、「貴志祐介には人間への悪意がある」というようなことを述べたが、その端を発するのは紛れもない「人間への期待」だと思ってもいる。人の本能に巣食う卑しい我欲に対して、こともなげに前提とした上で、より良く生きようとする心の動きを否定しない。その前提と同じ強度を持って、善性とも取れるような未来に向かう力を残している。主人公の描写で好きだったのは、ホームレスとして、都心で、無為に過ごしていた時間と、そのときに生きていた人間の「まなざし」を思うシーンだ。自己の意識にかかわらず、無数に存在するその他の人々。その誰もが自己と同じように息をし、ものを見、生きている。夥しい他者の存在感を、ゲームの中と現実世界で、藤木は重ねて感じたのである。藤木という人間を鎹に、対極のものを地続きで捉えている。
そしてそこに、希望と絶望とが同質の、ただ一対の感情の幅であるとでも言えそうな、作者のフラットさを思う。悪意と善性、と私が述べたものは、あくまでもそう捉えることを妨げないだけの事実の集積であり、小説に描かかれるのはただそれのみだったと思われる。

 

しかし面白いのは『流浪の月』の後にこの本が飛び込んでくるこの会なんだよな…。見事なほど正反対の本を読んだので、感想力も試された感じがしました。

 

 

お読みいただきありがとうございました。