実写版ムーラン/感想文



良かった!!すごく良かった!

主人公が「ヒーロー」として確立されていて、「女性」であることを肯定する強さ。

今時は無視できない要素なので、多少センシティブに見てしまう面はあるけれど、

映画としては、民謡・民話のテイストを残したまま、アクションとしても見応えがあるし、王道に徹したストーリーになっていたと思う。と言いつつ戻って、今この話を「王道」に仕立てられるのはもの凄いと思いますよ!!

これは私の感想ですが、ムーランは「ヒーロー」です、「プリンセス」ではなく。


アニメーションのムーランの良さは、勿論どこを好きになるかは人それぞれだけど、ちゃんとエッセンスは根底に感じられる。映画版「ムーラン」としてみることに違和感はなかったです。

「リフレクション」と「真実という言葉」の掛け合いのような場面の展開が、シンプルに深みまで届くし、観る人にの心にメッセージを掴ませる、演出の強さも良かったと思う。それでいて、アクション、ファンタジーというお伽話として楽しめるエンタメ性、ここがディズニーらしいところだなあとも。


以下ネタバレ盛り盛り感想文。

ムーランと対比されるオリジナルキャラクターの魔女(シェンニャン)、これが、すごく、主人公の英雄性と女性らしさをうまく縫い合わせる存在になっている。悪役として彼女を登場させる場面が、ムーランがまだ幼い、冒頭の部分から挿入されることで、ムーランと彼女の相似が伝わるんですよ。魔女の出自も過去も明かされないけれど、おそらく意図されているのは、ムーランのように、与えられた特別な力が、生まれついた役割(この場合は家における女性の立場)に決定的そぐわなかった存在。魔女はそれ故に、社会という人の居場所から弾き出された孤独と、そのための悲哀を抱え、ムーランのIFとして立ちはだかる。とても良いリフレクションですね(造語)。

魔女の目的は「自分を受け入れてくれる社会」「居場所」を手に入れることであり、始終ボーリー・カーンという男性に仕える存在ではないと主張している。この辺が今作で彼女が「ヴィラン」であることの決定打かなと感じます。もともと「カーンと仲間じゃねえからな」って話ですね。だからラスト、それを手入れるための手段を違えた(ここもヴィランたる要素)から死をもって物語を降りるし、それでいてムーランに自身のifの存在として、否定される運命を辿るんです。で、

好きなのはそれがシェンニャンがたどり着くことのできる望む結末の、最も良い形だった(と思える)ことなんですよね。自身が手にできなかったものを得ることのできる主人公を守る事で、間接的に自分は彼女の居場所の一部になれるし、彼女の中に自分の居場所を得られる。シェンニャンが欲しかったものを得るためにはムーランのために死ぬしかなかったのが、ヴィランらしい感傷に浸ることができて好きでした。

ディズニーヴィラン実写化救われがちの文脈ではあるんだけど、オリジナルの登場人物なので、よりムーランと重なるようになっていて、女性としての弱さとか寂しさという負の感情を担っているキャラクターの強度は充分に感じました。

しっかりオーバーラップさせてきたな、と思うのが、シェンニャンが登場した後のファ家のシーン。家に男子は父のみで、ムーランはどんなに才能があったとしても娘、そのことにどんなに異を唱えたくても、国も家も許してはくれない。「私が女に生まれなかったら」そのほうが「良かったのに」と、あの時ムーランは絶対に思っていたと思うんですよ。

そしてそういう不都合さ、不適合さに苛まれた過去をシェンニャンのものとしてもどこか感じ取れるようになっている。ヴィランが好きなのではしゃいでしまった。鳥に変身したり布でバチバチに戦えるところもグッドしました。目のメイクが堪らん。


ムーランの話をしますと、ここを台詞にしていないのが巧いです、なんというか、口に出せないくらい重い発言なんだと、思うんですよ。何故ならそれを言葉にしてしまったら「台無し」になってしまうから、今までの自分の生に関わる全てを否定してしまうから、家族思いの彼女はそれを言わない。それでもその家族のために性別を偽って剣を取る訳です。


最初っから「女性」云々って書いてますが、これはストーリー上抜きにしては語れない要素なので、あくまでフラットにみよう(というバイアスはかかってしまいますが)としてます。

自分を偽って生きる選択をすることと、その原因が社会的要因であること、物語ではそれが戦士として生きる男の役割、良き嫁となり家を守る女の役割、として抽出されているだけです。ここがおとぎ話として捉えられるポイントでもあります。

だからこそそこを覆していくムーランが見事にかっこよくて、「女性」であり「ヒーロー」であることが際立っていくんです。


すっかり没入して忘れてましたがあすみさんのムーランの声、明日海さんであることをすっぽかしてしまう最高さでした。う、上手いとしか言いようがない、あすみさんじゃなくてムーランでした。いやムーランはあすみさんなんですけど。吹き替えの演技に全く違和感がない、観るきっかけは間違いなく明日海さんでしたが観てる間は一切思考を邪魔しないという、最高のお仕事でございました。ありがとうございます。


さらに良いじゃん、となった改変要素が、これも女性であるムーランが軍を率いる立場に就く、ところです。これもシェンニャンがカーンの軍勢を陰で支援するよう強いられていたことに綺麗に対比されます。

アニメ版では気骨ある皇帝の息子に兵士として鍛えられ、性別を偽っていたことが明らかになり追放されるも、戦士として認められ、最終的には恋仲になります。この場合、「皇帝の息子に認められた」という決着になるので、今時このオチはうまくはないわけです。

今作では、ムーランといい感じになるのは同じ兵士の1人ホンフイ(cv細谷佳正)ですし、ラストは戦友として主人公を認め、故郷へ赴くムーランを、また同じ場所に立つ仲間として待つという人物。

彼は主人公と同じスタートを切り、訓練の中、彼女の才気と強さに憧れていたのだと思います(汲んだ水を崖の上に運んでゆくシーン)。なので最後に対等な相手として自分の手を取って欲しいと求めるんです。初対面の場面に対してのアンサーですね。


自分を偽ることで「真実」に迷い、シェンニャンにその弱さ見抜かれたとき、ムーランは「何のために戦うことを選んだか」に気付きます。それは家族や仲間や国のために戦う「自分の居場所のために」という「孝行」。与えられた才能を守るために使うことができる、人や居場所が「ある」という強さ。最初にそれを得られなかった魔女との決定的な違いとなるわけです。

そのために全てを捨てる覚悟をして、偽りを捨て、忠、勇、真の誓いを果たすムーランは間違いなくヒーローであって、だからこそ彼女が最初に選んだ「孝」が報われるハッピーエンドに至るのが大正解なんです。


まだ話すことあるんかいって感じですが、不死鳥のモチーフもすごく良く機能してました。前述した全てを捨てて、甦る強さを加護する不死鳥に、ムーランの父の剣が失われるシーンが重なるんですよね。この守護霊云々もアニメとは改変された部分ですが、一本の映画として纏めるにはすごく良かったと思います。


派手な展開とかややコテな演出はありますが好みの範疇、わかりやすさが大事!

そんなわけで、実写版ムーラン、しっかり楽しめました!!


長々と脈絡のない文章をお読みいただきありがとうございました。配慮に欠いた表現がありましたら先んじてお詫びいたします。それでは失礼します!

『クリムゾンの迷宮』/貴志祐介 感想文


なるほど、バトルロワイヤルはエンタメだ。


私は貴志祐介先生の書く物語に感じる「人類への漠然とした悪意」に一定の信頼を置いているのだが、今作もそれを読み取ることができた。より正確に説明をしておくと、貴志さんから人類への悪意を感じるということだ。その悪意は「人間の露悪的な側面をことさらに言う」よりは単に、作者に見えている人間の本性がそうあるためにかならず核に潜んでいるのだろう、と私は考えている。物語の中心となるのは、とあるデスゲームなのだが、その舞台設定を読み終えたあたりから一息に読み切った。
読み始めて感じたのは、今述べたある種の悪意の片鱗と「理系の文章だ」という二点。単純に理系的な熟語の選択が多いからだろう。「目が覚めたら見知らぬ場所にいて、どうやら飲まず食わずのまま荒野に放り出されていた。」という状況の説明が、人の目を通した叙述というよりは、第三者の書いた説明書のような、物語の中で現実として起こっていることから距離をおいた事実としての印象がする。主人公の藤木の境遇から、ヒロインにあたる藍、その他のゲーム参加者と、それらを取り巻く誰かについて、淡々と、なんでもないことのように書かれるのだ。もし身に覚えのあるような境遇の人だとしたら、なかなかに平常心では語れない半生だと思う。
話に必要な要素をひたすら合理的に揃えていくような組み立て方は、形式的な味気なさもあるが、次に起こりそうなことを推測しやすい「引き」の役割も担っていると思う。「バトルロワイヤル」が始まるまでに起こること、スタートしてからの定石、終盤にかけての布石、そして回収まで。ゲームという制約がある以上、その参加者に与えられた選択肢も限られ、要はそれをいかに駆使して面白いものを描くか、というサスペンス・ミステリとなる。
王道のバトルロワイヤル、デスゲームをちゃんと読むのは初めてだったのだが、不思議なもので、主人公の取らなければない行動はなんとなくわかる。それは「現実で人間の命をかけたデスゲームをするなら」という設定の説得力がいみじく、赤い岩に囲まれたバングル・バングル峡谷を舞台にサバイバルを展開していくからだ。主人公が「情報」を手にすることでこのゲームの攻略法、サバイバルストラテジー、ゲームの観客の存在が読者にも説明されるため、単純に「オーストラリアの荒野に放り出されたらこうして生きていくのか」という知見も手に入れられるのだが、その取材の緻密さが、面白さと同時にこのゲームのスリルにも一定の現実感を与えてくる。設定の強度はそのまま「現実にあるものでデスゲームをすることは可能」という侵食型の恐怖になるのだ。そして、主人公たちを視点主として、読者にもその選択肢が解放され、反対にそのほかのプレイヤーの選択が伏せられる。自然と次の出来事を推理しながら進むストーリーテリングに気づくのも面白い。
人間がゲームで生き残るために必要なのはなににおいても「情報」であり、そして、情報が必要だという情報を持っているか否かがプレイヤーの勝敗に関わる。私は賢い人間が大好きなので、読みながら「ここは情報一択でしょ」と思うし、作者がそれを正解に設定したことにかなりの好感をもった。ただし、ついでにこの辺りにも人類という生物への冷たさを感じる。理性的であることを是としているというよりかは、食料や武器を選択する人間が一定の割合で集団に存することが前提で成り立つゲーム設定にしているからだ。
さらには、主人公でさえも情報を軽んじているし、後でわかることだが、口添えをした藍も当人の自由意志による選択ではない。藤木が生き延びられたのは、最良のルートを選んだというためではなくて、最良のルートに偶然転がり込めた幸運のためなのだ。
つまり、おおよその人間が振り分けられるのが、食料のルート、必ずエネミーに仕立てられる食人鬼の道と言うことになる。たびたび言うが、わざわざ「大体の人間が最低のルートを選びます」と述べるのはなんというか、流石の冷酷さだと思う。
プレイヤーに与えられる端末と、物資供給、信用ならないキャラクター、ゲームを解くヒントとなるメタファー、情報が揃うにつれ、この前提をどう転ばせるのかといいうワクワクが募る。クローズドミステリの面白さを衒いなく展開していけるのも、設定の緻密さのなせるエンタメ性なのだと感じる。
特に後半にゲームの後半にかかるにつれ、緊迫した場面の展開には読み応えがあった。伏線を忘れさせない安定感とスリルは、そのまま映画のシーンのような完成度だと感じる。他のチームとの再会や、ドクロマークの意味、V字の谷と毒蛇のリスト…完璧な回収力に一気に読まされてしまい、バトロワミステリを好きになる一冊になった。人間関係をゲーム性に織り込んで語る辺りにもリアリティショーとしての徹底した視点があって良い。
最後まで主催側の思惑や正体は明かされないのだが、それで興が削がれるということもない。というのも、知ったからといってあのゲームに現実性が担保されるとは思わないし、寧ろより創作色が強くなって腑に落ちなさを覚える気もするからだ。それに私が読みたかったのは「このゲームの結末」という「番組の締め」なのだから、制作会社なんてどうでも良いのだ。そういう無責任な消費感情をひっくるめて読ませる作品だったと思う。

私はこの文章の始め、「貴志祐介には人間への悪意がある」というようなことを述べたが、その端を発するのは紛れもない「人間への期待」だと思ってもいる。人の本能に巣食う卑しい我欲に対して、こともなげに前提とした上で、より良く生きようとする心の動きを否定しない。その前提と同じ強度を持って、善性とも取れるような未来に向かう力を残している。主人公の描写で好きだったのは、ホームレスとして、都心で、無為に過ごしていた時間と、そのときに生きていた人間の「まなざし」を思うシーンだ。自己の意識にかかわらず、無数に存在するその他の人々。その誰もが自己と同じように息をし、ものを見、生きている。夥しい他者の存在感を、ゲームの中と現実世界で、藤木は重ねて感じたのである。藤木という人間を鎹に、対極のものを地続きで捉えている。
そしてそこに、希望と絶望とが同質の、ただ一対の感情の幅であるとでも言えそうな、作者のフラットさを思う。悪意と善性、と私が述べたものは、あくまでもそう捉えることを妨げないだけの事実の集積であり、小説に描かかれるのはただそれのみだったと思われる。

 

しかし面白いのは『流浪の月』の後にこの本が飛び込んでくるこの会なんだよな…。見事なほど正反対の本を読んだので、感想力も試された感じがしました。

 

 

お読みいただきありがとうございました。

 

『流浪の月』/凪良ゆう 感想文

 

 

まず、感想を簡潔に記すと、私には届かない幸せの形だ、と思った。

凪良ゆうさんの文章はとても繊細で、言葉遣いがシンプルなところがとても読みやすかった。叙情的な物語の進み方に引き込まれ、するすると続きのページを読んでいた。主人公「更紗」と、もう一人の視点主の「文」、それぞれの「暮らし」の描写から読み取れる性格、環境、雰囲気や空気感と言ってもいい、それを淀みなく流れる水のように汲み取ることができた。これは読み手がどれだけ感情移入しやすいかということにももちろん関わるとは思う。なにせ、描かれる「暮らし」は決して平凡にはなりようがない様相なのだから。

冒頭の一節を過ぎると、更紗の幼少期の暮らしにフォーカスが当たる。少女の目を通した両親との日々はきらめいていて、読み手に彼女の家庭に肯定的な印象を持たせることだろう。ただ、それは「ものごとの内側から見える景色」が客観的な事実とは多少なり異なるということを語っている。この場面も、家内更紗の家を、周りはどんな目で見ていたのか窺い知ることができる。「浮世離れ」した妻と、勤勉で釣り合いの取れない夫と、母に似た変わり者の子供。

「景色」とは、物語の後半に、更紗が文に言う「真実」のことだ。真実は、奔放さの中にいっぱいの愛情を持ち、それを注ぐ相手がいなくてはいけない母と、ちゃんとしなくてはと繕う糸を解く場所を、妻の自由さに得ていた父と、無上の幸せを二人の間に感じていた娘。「事実なんてどこにもない」「この真実があればいい」更紗はそれを持って生まれた。読み手には「そこにしか居場所のない幸せ」が、どうか失われないで欲しいと思わせる。

けれど、更紗からそれを丸ごと消し去ってしまったのは、ルールに固められた善意だった。ここに少なからず、私は彼女の物語との隔絶を悟ることになる。ああ、一般人が持ち得るような正しさと憤りは、そちら側には届きようもないのだと。

後にこの「浮世離れ」したもののために、誘拐事件を引き起こすことになり、さらに大人になった更紗は当時を振り返り、あの選択は客観的には過ちであったことに気づく。文は声をかけるべきでなかった、更紗は手を取るべきではなかった。当たり前の、残酷な正しさ。外側の人間は、それを引き止めるための理由をほんとうは持てやしない。持っていないのに、それを無意識に押し付けることやめられないだろう。それは時に、当事者自身の内側に向けても作用し、己に罪があり、罰を受け、許されないといけない気持ちにさせる。あの時は過ちとは思わなかったのに。

その悔情はある意味では人を良い方へ向かわせるための正義であることは疑えないと思う。だがそれさえもぼくらの作った理想なのではないか。この主観と客観の堂々巡りの中で、登場人物も苦しむことになる。

更紗や文、亮くんや谷さんたちも、抱える感情に混ざる秘密が心の奥に根を張って、どう頑張ろうとしたって世間様の「正しさ」から外れることしかできない姿に、私はとても心が痛んだ。けれど同時に、とても憧れた。正しいことのために生きなくていい、そこに見出す救いに似た決着は、私にはとても愛おしかった。幸せと幸福と、満ち足りた生活の規則正しさや何も隠し立てのない明るさへの「嫌気」を肯定するようで、私には心地よかった。

よく思うことがある。喧嘩をして、全部壊れてしまえと思いながら、家を飛び出すことができたらいいと。ある日突然家に帰らずに、知らない駅の公園で朝を待ちたいと。それをするには私は自立していないし、憎めるほどの家族はいない。自分の家の平凡さに甘えながら、マンションの一番上から身を投げる想像をする。取り返しのつかないことを抱えながら、同じ傷をもつ誰かに寄り添いたい。むしろ、自分に傷の一つもないことの虚しさを、誰がわかってくれるというのだろうと思っている。隠せる傷もないというのは、苦しみの証明ができないということだ。

小説に話を戻す。主人公たちに起きた事件はしだいに過去になり、当事者だけが、誰も知らない真実を、その真実が光に違いないことを、見失わないように、細やかに必死に生きている。普通の暮らしに「更生」するために、自分の絆を手放さないよう、相克の最中を生きている。外と内とで揺れる天秤が見事なまでに、相手に伝えたい事実と、伝えきれない感情を選り分けていく。

自分の中ではほんものだと信じている思いを、他者に伝えることが難しくてたまらない。もしや普通の人は、そんなことはないのだろうか?わからない、そうだったらはずかしい、泣く姿などさらしたくない、これ以上惨めに、なることがわかっているのに、口に出せるものか。そういう気持ちがわかる人はどれほどいるのだろう。

すでに傷だらけの更紗について、無傷の人間はひどく残酷に思える。テンプレにはめられた優しさも善意も、綺麗に裁断された紙面のように主人公を傷つける。見た目は良心であるが故、責めることはできない、誰も紙切れに怒ることはしないように。その善意に憐憫を感じて、「真実」との差異に憤ることさえも、できることならしたくないのだ。自分が嫌になるばかりなのだから。この話の妙は、主人公たちの「もうどうしようもないから目を背けることにした」という傷口について、読者が共感できてしまうことだ。読み手が正しさの側に立つ限り見えない場所、押し込めて見ないようにしている心の陰り、皮を一枚隔てた「内側の景色」を描くのが上手い。

更紗の良さは、ここで折れないことにあったと思う。生まれ持った芯の強さと、唯一の理解者を得ていたこともそれを補強する要素になっている。無責任にレッテルを貼り付ける不特定多数の部外者たちに、対抗する自由さ。逃げ場のない自分を追い立てる悪意や懇願を身勝手に振り切る自由さ。無論その浮世離れした自由さから危うさが剥がれることはないけれど、本人がそのどうしようもない危うさを覚悟しているなら、私はその背中を見送りたいと思うのだ。

無責任な部外者は、主にネットに蔓延る乱雑な情報と、それが作り上げた事実から善意で勝手に助けようとする人達。行為のある悪意に罰のない従兄弟。弱い者を庇護することでしか自分を守れなかった恋人。ともすれば、作者の描く内面の描写と、読み手の客観がぶつかることで、更紗が架空の人物に遠のいてしまうのだが、それは物語の構図の巧みさに半ばこじつけて読もうとするのも面白いのではないかと思う。更紗と文に憤る読み手は、半端な共感と固定観念をもった者か、あるいは自分の傷口から必死に眼を背けているような者だろうと邪推できるし、まるで亮や谷に重なるようではないか、と。

事件は欠けたピースが天から降って来たかのように終点へと動いてゆき、喫茶店calicoとの出逢い、傾いてゆく更紗と亮くんのシーソー、知り合いの娘と更紗と文のひととき、外側から見えるものと、内情との決定的な違いが解けることはない。この構図のリフレインが本当に見事で、流れる月のような二人の関係性を破綻なく紡いでいる。

後半に差し掛かり、文の視点から語られる事件は、予想ができなくはない代物ではあるが、それ故に二人の離れ難さを、読み手の心に深々と押し込むようなトドメの章だった。自分は失敗の方だと、失敗の方には価値はないという強迫観念が19歳の文に罰と赦しとを求めさせ、捻れた弁明を求めさせた。半ば気づいていた文の半生が綴られると、私という読み手が待ち望んでいた言葉がある。

更紗は文の救いだった。

更紗は文を罰さず、許しも必要としなかった。もしも聖書に例えるならば、更紗の存在は悪魔の囁きに類すると思う。でも、それこそが文の救いになり得ていた。神様はいらないという救い。

更紗の文の関係は、洗い立てのシーツが夜風にたなびいているみたいだった。いつも間に合わなくて、雨が汚していたけれど、汚れたならまた洗えば良くて、何度でも洗えば良くて。ただ生きることに身を任せる、そういう強さを持って流れてゆく更紗に、何度でも幸せが振ってきてくれるように願う。

今の私にはそういう願い事しかできないことに、些末な寂しさを覚えながら。

 

 

身内読書会の感想バックナンバーです。

お読みいただきありがとうございました。