『流浪の月』/凪良ゆう 感想文

 

 

まず、感想を簡潔に記すと、私には届かない幸せの形だ、と思った。

凪良ゆうさんの文章はとても繊細で、言葉遣いがシンプルなところがとても読みやすかった。叙情的な物語の進み方に引き込まれ、するすると続きのページを読んでいた。主人公「更紗」と、もう一人の視点主の「文」、それぞれの「暮らし」の描写から読み取れる性格、環境、雰囲気や空気感と言ってもいい、それを淀みなく流れる水のように汲み取ることができた。これは読み手がどれだけ感情移入しやすいかということにももちろん関わるとは思う。なにせ、描かれる「暮らし」は決して平凡にはなりようがない様相なのだから。

冒頭の一節を過ぎると、更紗の幼少期の暮らしにフォーカスが当たる。少女の目を通した両親との日々はきらめいていて、読み手に彼女の家庭に肯定的な印象を持たせることだろう。ただ、それは「ものごとの内側から見える景色」が客観的な事実とは多少なり異なるということを語っている。この場面も、家内更紗の家を、周りはどんな目で見ていたのか窺い知ることができる。「浮世離れ」した妻と、勤勉で釣り合いの取れない夫と、母に似た変わり者の子供。

「景色」とは、物語の後半に、更紗が文に言う「真実」のことだ。真実は、奔放さの中にいっぱいの愛情を持ち、それを注ぐ相手がいなくてはいけない母と、ちゃんとしなくてはと繕う糸を解く場所を、妻の自由さに得ていた父と、無上の幸せを二人の間に感じていた娘。「事実なんてどこにもない」「この真実があればいい」更紗はそれを持って生まれた。読み手には「そこにしか居場所のない幸せ」が、どうか失われないで欲しいと思わせる。

けれど、更紗からそれを丸ごと消し去ってしまったのは、ルールに固められた善意だった。ここに少なからず、私は彼女の物語との隔絶を悟ることになる。ああ、一般人が持ち得るような正しさと憤りは、そちら側には届きようもないのだと。

後にこの「浮世離れ」したもののために、誘拐事件を引き起こすことになり、さらに大人になった更紗は当時を振り返り、あの選択は客観的には過ちであったことに気づく。文は声をかけるべきでなかった、更紗は手を取るべきではなかった。当たり前の、残酷な正しさ。外側の人間は、それを引き止めるための理由をほんとうは持てやしない。持っていないのに、それを無意識に押し付けることやめられないだろう。それは時に、当事者自身の内側に向けても作用し、己に罪があり、罰を受け、許されないといけない気持ちにさせる。あの時は過ちとは思わなかったのに。

その悔情はある意味では人を良い方へ向かわせるための正義であることは疑えないと思う。だがそれさえもぼくらの作った理想なのではないか。この主観と客観の堂々巡りの中で、登場人物も苦しむことになる。

更紗や文、亮くんや谷さんたちも、抱える感情に混ざる秘密が心の奥に根を張って、どう頑張ろうとしたって世間様の「正しさ」から外れることしかできない姿に、私はとても心が痛んだ。けれど同時に、とても憧れた。正しいことのために生きなくていい、そこに見出す救いに似た決着は、私にはとても愛おしかった。幸せと幸福と、満ち足りた生活の規則正しさや何も隠し立てのない明るさへの「嫌気」を肯定するようで、私には心地よかった。

よく思うことがある。喧嘩をして、全部壊れてしまえと思いながら、家を飛び出すことができたらいいと。ある日突然家に帰らずに、知らない駅の公園で朝を待ちたいと。それをするには私は自立していないし、憎めるほどの家族はいない。自分の家の平凡さに甘えながら、マンションの一番上から身を投げる想像をする。取り返しのつかないことを抱えながら、同じ傷をもつ誰かに寄り添いたい。むしろ、自分に傷の一つもないことの虚しさを、誰がわかってくれるというのだろうと思っている。隠せる傷もないというのは、苦しみの証明ができないということだ。

小説に話を戻す。主人公たちに起きた事件はしだいに過去になり、当事者だけが、誰も知らない真実を、その真実が光に違いないことを、見失わないように、細やかに必死に生きている。普通の暮らしに「更生」するために、自分の絆を手放さないよう、相克の最中を生きている。外と内とで揺れる天秤が見事なまでに、相手に伝えたい事実と、伝えきれない感情を選り分けていく。

自分の中ではほんものだと信じている思いを、他者に伝えることが難しくてたまらない。もしや普通の人は、そんなことはないのだろうか?わからない、そうだったらはずかしい、泣く姿などさらしたくない、これ以上惨めに、なることがわかっているのに、口に出せるものか。そういう気持ちがわかる人はどれほどいるのだろう。

すでに傷だらけの更紗について、無傷の人間はひどく残酷に思える。テンプレにはめられた優しさも善意も、綺麗に裁断された紙面のように主人公を傷つける。見た目は良心であるが故、責めることはできない、誰も紙切れに怒ることはしないように。その善意に憐憫を感じて、「真実」との差異に憤ることさえも、できることならしたくないのだ。自分が嫌になるばかりなのだから。この話の妙は、主人公たちの「もうどうしようもないから目を背けることにした」という傷口について、読者が共感できてしまうことだ。読み手が正しさの側に立つ限り見えない場所、押し込めて見ないようにしている心の陰り、皮を一枚隔てた「内側の景色」を描くのが上手い。

更紗の良さは、ここで折れないことにあったと思う。生まれ持った芯の強さと、唯一の理解者を得ていたこともそれを補強する要素になっている。無責任にレッテルを貼り付ける不特定多数の部外者たちに、対抗する自由さ。逃げ場のない自分を追い立てる悪意や懇願を身勝手に振り切る自由さ。無論その浮世離れした自由さから危うさが剥がれることはないけれど、本人がそのどうしようもない危うさを覚悟しているなら、私はその背中を見送りたいと思うのだ。

無責任な部外者は、主にネットに蔓延る乱雑な情報と、それが作り上げた事実から善意で勝手に助けようとする人達。行為のある悪意に罰のない従兄弟。弱い者を庇護することでしか自分を守れなかった恋人。ともすれば、作者の描く内面の描写と、読み手の客観がぶつかることで、更紗が架空の人物に遠のいてしまうのだが、それは物語の構図の巧みさに半ばこじつけて読もうとするのも面白いのではないかと思う。更紗と文に憤る読み手は、半端な共感と固定観念をもった者か、あるいは自分の傷口から必死に眼を背けているような者だろうと邪推できるし、まるで亮や谷に重なるようではないか、と。

事件は欠けたピースが天から降って来たかのように終点へと動いてゆき、喫茶店calicoとの出逢い、傾いてゆく更紗と亮くんのシーソー、知り合いの娘と更紗と文のひととき、外側から見えるものと、内情との決定的な違いが解けることはない。この構図のリフレインが本当に見事で、流れる月のような二人の関係性を破綻なく紡いでいる。

後半に差し掛かり、文の視点から語られる事件は、予想ができなくはない代物ではあるが、それ故に二人の離れ難さを、読み手の心に深々と押し込むようなトドメの章だった。自分は失敗の方だと、失敗の方には価値はないという強迫観念が19歳の文に罰と赦しとを求めさせ、捻れた弁明を求めさせた。半ば気づいていた文の半生が綴られると、私という読み手が待ち望んでいた言葉がある。

更紗は文の救いだった。

更紗は文を罰さず、許しも必要としなかった。もしも聖書に例えるならば、更紗の存在は悪魔の囁きに類すると思う。でも、それこそが文の救いになり得ていた。神様はいらないという救い。

更紗の文の関係は、洗い立てのシーツが夜風にたなびいているみたいだった。いつも間に合わなくて、雨が汚していたけれど、汚れたならまた洗えば良くて、何度でも洗えば良くて。ただ生きることに身を任せる、そういう強さを持って流れてゆく更紗に、何度でも幸せが振ってきてくれるように願う。

今の私にはそういう願い事しかできないことに、些末な寂しさを覚えながら。

 

 

身内読書会の感想バックナンバーです。

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